神社名 | 豊日別神社(草場神社) |
鎮座地 | 福岡県行橋市南泉7-13-3 |
由緒等 | 欽明天皇即位の年(五三二)神が老翁の姿と化して現われ、神官の大伴連神牟祢奈里に「我は猿田彦の大神なり天皇を護り臣民の繁栄と安寧、五穀豊穣、病平癒の神である」と告げた。翌日、大神は豊日別宮に降臨し「猿田彦は天照大神の分神なりこれにより豊日別大神を本宮とし猿田彦を以て別宮となす」と告げたことから社殿を建てて祀ったのが本社の起源ととされる。 欽明天皇二十八年(五六七)には洪水飢饉などが各地を襲ったが、豊日別大神に祈願し治まったといわれ、その後代々の天皇によって大和の霊跡、西海鎮護の神として尊崇されたという。 養老四年(七二〇)大隅、日向の隼人が反乱したため、朝廷は大軍を派遣するとともに宇佐八幡神に祈願してこれを討伐した。しかし官軍に殺された隼人の祟りでさまざまな病や災いがあったため、宇佐八幡神は隼人の霊を鎮めるため金光明経の教えに基づいて「毎年放生せよ」と託宣した。これにより魚や鳥などを解き放って生を全うさせる仏教儀礼である放生会が行われるようになった。放生会の際に、朝廷の勅使が一旦、豊日別宮に官幣を奉安したことから官幣宮と呼ばれるようになった。 官幣奉安の間、田川郡採銅所では宇佐神宮に奉納する神鏡を鋳造しそれを豊日別大神に併せて祭り、本社の神輿とともに陣列を組んで宇佐への神幸が行なわれた。神幸の経路は八月九日草場豊日別宮を発し、国作御所屋敷、徳政若宮を経て十一日祓川で禊ぎをし、築上郡湊八幡宮、上毛郡高瀬村、宇佐郡佐野里を経て十三日凶士塚に至り宇佐神宮の神幸を待つ。宇佐八幡の神輿が到着すると並んで和間の浜に向い、浮殿頓宮に宇佐八幡神に官幣と神鏡を奉る。十四日夜、法会と伝戒があり、十五日朝、海に蜷や貝を放流する。 宇佐神宮に対して度々行なわれる官幣の奉納に際してはその後も豊日別宮が官幣奉安の宮居となった。 (案内板より) |
メモ | 宇佐神宮行幸会の際に、田川郡香春町の古宮八幡神社で鋳造された神鏡を運ぶ際に立ち寄る神社の一つです。 草場神社という名でも呼ばれます。 |
撮影年 | 2024年 |
地図 |