神社名 | 斎宮 |
鎮座地 | 福岡県糟屋郡久山町山田232 |
由緒等 | 斎宮
御祭神 天疎向津姫命(あまさかるむかつひめのみこと)(天照大神) 武甕槌命(たけみかづちのみこと) 事代主命(ことしろぬしの命) 住吉三神(表筒男、中筒男、底筒男) 息長足媛神(神功皇后) 合祀 六所神(伊弉諾尊、伊弉冉尊、瓊々杵尊、速玉男命、事解男命、国常立の尊)、豊受大神 境内社 祇園社 山田邑斎宮の由来記 当宮は神功皇后が新羅征伐のとき、みづから神主となり、 神教を祈願された霊蹤の地であり、つぎのような由来を伝えている。 第十四代仲哀天皇は、仲哀八年巳卯の春、神功皇后と御一緒に熊襲征伐のため、筑紫の香椎宮に行幸啓された。そのとき皇后に「熊襲の服せざるは、新羅の後援なれば本幹たる新羅を攻め給わば、枝葉の熊襲はみづから枯れん」という神のおつげがあった。しかし仲哀天皇は、神のおつげを無視して熊襲を討たれたため、失敗されて、香椎宮に帰られ、翌年二月、病気で崩御された。 皇后は非常にお嘆きになったが、密かに御屍を納めになり、喪をかくして、賊徒征伐の業をお継ぎになった。 そうして、香椎宮から群臣百寮を率いて小山田邑(上山田)に行啓され、御住居になったところが、聖母屋敷で、聖母屋敷の西南にあたる六所の地に斎宮を造営され、皇后みづから神主となり、六所神を祀り、三月朔日から七日七晩戦勝の祈願をなされた。神々の御加護により、國内も治まり、三韓も戦わずして平定された。 皇后が諸々の戦術と戦勝祈願をされた六所大明神は慶長年中大洪水で破損したので、村民は非常に恐懼して聖母屋敷に合祀した。この社の跡を「ろくしゅう」と言って、六所田(神田)の中に今も社の跡を残されている。 なお、境外神社として審神者(さにわ)神社があるが祭神は、中臣烏賊津使(なかとみのいかつのおみ)「日本書紀」の神功皇后紀に皇后の祈願に際して中臣烏賊津使を喚して審神者とす、とある。審神者とは神の託宣を請うてその意を伝える人である。 この社は、慶長三年まで六所の社殿のあった六所神と向かいあい両社の間に建造物を禁止されていたという言い伝えがある。また、一般に「おやしろさま」と呼び勝負の神さまとされている。 これらを総合して考えてみると二千余年の古跡は、それぞれしっかりと上山田の地に刻まれて、神功皇后の御偉業とともに千古に朽ちないこと物語っている。 (案内板より) |
メモ | 審神者神社のそばには斎宮の御旅所があります。 |
地図 |