神社名 大御神社(細島)
鎮座地 宮崎県日向市細島
由緒等 大御神社由来記

 日向案内記に依ると社は応永二年(1395年)後小松天皇の時代に黒木大学の再建せること口碑に存せりとある。応永と云えば足利幕府が支配権を確立していた時代で応永四年に金閣寺を足利義満が建てたと記録されている。大御神社はその頃再建されたと云うのだから創建はそれ以前であり足利尊氏の室町時代に存在していたと思われる。
 嘉永六年(1853年)ペリーの浦賀来航により幕府は海防上の監視を行うことを各藩に命じたとある。天領地日向に於いても富高、日知屋、細島崎、宮の上に鉄砲足軽の設置所を配置すると共に、細島崎、宮の上(社地の高台)に砲台まで防備を整えたとされている。この砲台建設については、日田代官所郡代が延岡、高鍋藩に細島港の警備出役する様命じた際高鍋藩が砲台だけでなく今の大御神社(当時は朝日大神宮)の造営建替の費用一切を負担するとしたのに延岡藩もあわてて同様の条件で申入れを行い許可されたと記してある。様々な経緯を経て、細島港の砲台場は文久三年(1863年)十一月に完成するが薩摩藩の強い要請により細島港の防備はその一切を薩摩藩が請負うこととなったと記されている。大御神社の拝殿内に「䒶炤大日孁貴神」天照大神の別称の木簡が掛かっている。筆者名が薩州穐岡遜敬となっている事から高鍋藩から維持管理を引き継いだ薩摩藩が損傷した神社を新たに建立したと考えるべきであろう。いずれにしてもこの神社が西国近辺の藩にその改築にかかわらせらたかを考えるとき江戸時代迄朝日大神宮と呼称されていた神社が如何に顕著な存在であったかと忍ばれるところである。いま大御神社はひっそりとした社になってしまったが、天領地細島の長い歴史の中で栄枯盛衰のシンボル的存在がこの大御神社であったと思われてならない。
(案内板より)
メモ 細島港の高台に鎮座する小さな神社。もともと朝日大神宮と呼ばれ、その後朝日神社を経て今の大御神社という名称になりました。
小藩分立の宮崎県の中で特に複雑な経緯を持つ天領日向の歴史とともにあった神社です。
地図

大鳥居

社号標

二の鳥居

境内

手水鉢

拝殿

本殿

社殿全景

末社

神社から見た細島の入江

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