神社名 厚狭天満宮
鎮座地 山口県山陽小野田市厚狭1-15-1
由緒等 菅原神社 厚狭天満宮
祭神 天満大自在天神(菅原道真公)
由緒沿革
社伝によると、江戸時代寛永二年(一六二五)に当社は、厚狭毛利家の助言により、当地の枝村家が、同家の鎮守神として、萩の金谷天満宮の御分霊を奉斎したことに始まる。その後、同家から厚狭村の金谷というところへ慶安三年に(一六五〇)遷座、金谷天満宮と称した。
天明二年(一七八二)枝村介右衛門が再建し、文化元年(一八〇四)地区の氏神となった。此の年間、鴨ノ庄村や末益村の開拓地が水害にあい、海水がたびたび同地へ侵入した。そのため数百間の土手を築いて侵入を防止したが、洪水や海水により堤防が決壊して役に立たなかった。
文政十三年(一八三〇)に天満宮をこの堤防に遷祀し、飛梅天満宮と称して堤防の守護神とした。
天保十四年(一八四三)に、当社は鴨神社に合祀となり、社殿は解体された。これは前年に発令された「淫詞解除令」による措置である。(寺社奉行へ上申されていなかった。)
その後、原村清安寺の不動明王社に合祀となった。
この頃厚狭川(七瀬川)の堤防が洪水によって決壊し、被害を受けた。被害が甚大であった為、復旧が進まなかった。
明治の世となり地区の世話人十七人が尽力し、県令を経て明治十三年(一八八〇)に再建鎮座された。
現在地は國弘家の私有地の寄付を受けた。また当時より鴨神社の御旅所の地である。
メモ 江戸時代創建とあってかなり詳細な経緯が残っており、当時の苦労が偲ばれます。
近くの鴨神社の御旅所となっています。
地図

社頭

手水鉢

拝殿

本殿

社殿全景

神牛

稲荷神社

宮地嶽神社

小祠

TOPへ