神社名 | 宇部護國神社 |
鎮座地 | 山口県宇部市中宇部1631 |
由緒等 | 由緒 宇部護國神社 創建 慶応二年十一月(一八六六年) 主神 福原越後元僴公(福原家第二十四代) 毛利藩を救うため、禁門の変(元治元年七月一八六四年)の責任をとって同年十一月岩国において自刃された(五十才) 合祀 御英霊 禁門の変で戦死された二十二柱より、大東亜戦争で國の為に戦死された宇部市全域にわたる尊い御柱 御霊 消防等の公務殉職者 例大祭 春季 毎年 四月上旬 慰霊祭 秋季 毎年九月二十三日(祭日) 当神社は禁門の変の御柱を西側奥地の「維新招魂社(通称御霊社)」に合祀して以来、約八十年にわたる戦死者の尊い御英霊をお祀りしてあり、英霊顕彰が続けられております。社名 社殿は昭和年代の変遷を経て現在に至っております。 当神社と縁の深い福原氏は、宇部領主として治世約三百年の間、鵜の島開作 蛇瀬溜池 新川掘削 常磐溜池等領勢増進に格別の努力を傾注するとともに、菁莪堂 後に維新館を開設して人材育成にも励み、禄高一万石を大きく凌ぐ程になりました。 尚、永代家老として歴代毛利藩の経営にあたり多大の功績がありました。越後公は、徳山藩主毛利広鎮公の六男でしたが、福原家に養子となり永代家老をつとめながらも、領内の治世に励み領民からの敬愛は特に厚く、なきがらは宗隣寺に葬られました。越後公自刃九ヶ月後には藩より罪情焼棄されたので「維新招魂社」の建立となり、後に正四位男爵を賜りました。 越後公の要し芳山公は、明治初期英国留学により石炭の重要性に着目、帰国後宇部坑区の流出防止と統合を積極的にすすめ、これを宇部共同義会に継承して産業発展の基盤づくりに多大の功績がありました。 (案内板より) |
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