神社名 | 生野神社 |
鎮座地 | 山口県下関市幡生宮の下町16-18 |
由緒等 |
生野神社(旧、幡生八幡宮)御由緒 御祭神 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、宗像三女神(多紀理毘売命、多岐都比売命、寸嶋比売命)、彌都波能売神 御由緒 第五十六代清和天皇、貞観二年(千百数十年前)九月の創祀、当時京都大安寺の僧行教天皇の勅命を受け、九州宇佐八幡宮に赴き、八幡宮の御分神を奉載して、京都男山(今の石清水八幡宮)に皈る途中、当地が清地であり又、神功皇后ゆかりの地であることから、ここに仮泊し、御分神を奉祀したと伝えられる。 又、古来武将の崇敬も篤く文禄元年豊臣秀吉、朝鮮の役に出陣の際、松の木を八本手植し戦勝を祈願したと云う(落雷の為、大正六年県知事許可認可の上、処分、拝殿正面の奉納額、松皮はその一部である)。昔はこの附近数ヶ村の総氏神として、地方人の崇敬は篤かった。響灘に浮かぶ六連島も古くはこの神社の氏子であったが海上遠い為、昭和四年二月、この神社より御分神を勧請して六連島八幡宮を建立した。 伝説 往時この宮山附近一帯は入海にして天然の良港であった。神功皇后、三韓の役の際ここで最初の軍船を揃え、船出された。その時軍船に仕立てた数百流の旗(幡)が一夜にして生れ、生え出たように見えたので「幡生」の地名が出来たと伝わる。 境内末社 人丸神社、正一位白瀧稲荷神社 宮の山古墳 当神社神域には一千四~五百年前と推定される、下関市指定文化財前方後円墳が保存されている。 氏子区域 明治四年、是松八幡宮、同四十三年、後田、藤ヶ谷、両八幡宮、武久宗像神社を合併、現在幡生、後田、石神、藤ヶ谷、武久、山の田、大学、生野、宝、権現等各町全域が氏子地域である。 神社名改名 昭和二十年旧生野村名並に往時の生野村総社の存名を以って幡生八幡宮を生野神社に改名する。 (案内板より) |
メモ | JR幡生駅から徒歩10分程度の宮山古墳上に鎮座する古社。往古は幡生八幡宮と称し、長い歴史を誇っていましたが色々な事情で生野神社と改称。 宮山古墳は古墳時代後期(6世紀)に築造されたとされる本格的な前方後円墳です。 |
地図 |