神社名 | 正八幡宮 |
鎮座地 | 山口県山口市秋穂西337 |
由緒等 | 正八幡宮神記 鎮座地(略) 御祭神 品陀和気命(応神天皇)足仲津比子命(仲哀天皇)気長足比女命(神功皇后) 神伝によると昔この地方秋穂浦は、異国の軍勢に度々襲われたことがあった。人皇五十二代嵯峨天皇の弘仁五年(八一四年)八月十五日豊前国宇佐八幡宮より御勧請西戎降伏の鎮護の神として二島の海汀(二島古神の地)に鎮め祀られたのである。 当時は八幡二島宮と称えていた。その時嵯峨天皇の御宸筆の勅額及び紺紙金泥の法華経を賜る。 その後数百年を経て火災にあい、応永の頃大内盛見公社頭改築の計画を立てられたが、やがて人皇百三代後土御門天皇の応仁元年(一四六七年)卯月十五日大内政弘公により再建された。 その後明応二年(一四九三年)八月十六日再び火災にあい、その時倫旨院宣その他御宝物の多くを失ったという。 御神託によって、八年の後人皇第百四代後柏原天皇の文亀元年(一五〇一年)三月大内義興公により現在地久米山の地に移し建てられた。 更にそれから二百四十年余りにして蟻害の為、毛利宗弘公により人皇百十五代桜町天皇の元文五年(一七四〇年)八月十三日現在の社殿が造営され今日に及んでいる。 □□は正面に面し、往古西戎防護の目的に建てられた遺風をのこしている。古くから大内氏、毛利氏の尊崇もあつく秋穂の総氏神として崇められ、お祭も大変盛大厳粛であった。 楼拝殿部分の基礎石の天端の周囲には溝が彫られているが、かつてはこれに塩水をたたえシロアリの上昇を防いだものといわれる。 明治六年郷社に列し明治三十四年七七月九日県社に昇格 (案内板より) |
メモ | 旧縣社 長い参道、大内様式を今に伝える荘厳な社殿、山口特有の土っぽさ、全てが山口県を代表するにふさわしい造りになっています。結構感動しました。 山口市街よりも宇部の方に近いです。 |
地図 |