神社名 | 福母八幡宮 |
鎮座地 | 佐賀県杵島郡大町町福母2227 |
由緒等 |
詳しい情報は公式サイトで。 「景行天皇当郡嬢子山の土蜘蛛八十女退治の際、神風之吹毛(福母の旧名)之伊磯能溺佐棄の御波門(石崎湊の旧名)に滞船あって、霊畤を此山に設け、四柱騰宮を建て、天神地祇を勧祭し勝軍を祈らる、神功皇后も亦征韓凱旋の際、艟艨を石崎の湊に寄せ、大巖石の上に神祇を勧請し御劔を奉安せらる、仍て此石を神功石と称す。 称徳天皇神護景雲元年三月霊畤を今の猿通山に遷し、十二社三神御勅祭布久母神社と勅令在りて神田神戸を封せらる、元永二年(1119年)春河内国坂戸判官景通の子孫、後藤資茂始めて西肥前に下向し、塚崎の庄に居城するや、武雄社と同く崇敬す。 天治二年(1125年)八郎源為朝、後藤氏と力を合わせ社殿を再建し神田五十丁と定む、文治二年(1186年)九月十九日勅使左大辨藤原基氏、鎌倉の使者内舎人天野遠景来着し、始て社名を八幡宮と改め右大将頼朝の教書を封す、同年十一月真言宗護国密神宮寺創主座主となり、又境内に天台宗能満寺を建立、共に座主坊たり。 建久二年(1191年)多久太郎宗直神殿を再建して改て神領十町社内一山五町の免地を封し、四十八村の鎮守社と定む。 天正五年(1577年)領主和泉守祭料を改め現米十石となし、文禄四年(1595年)鍋島直茂祭料を改めて現米一石となす、明暦年中(1655年から1658年)社料寺料悉く没収せられ造営修繕総て民費となる。唯祭料一斗四升六合は明治四年迄下附されたり。明治六年村社に列せらる。 無格社合祀に依り祭神武内宿禰外六柱追加す。 大正十二年神饌幣帛料供進指定。」 (佐賀県神社誌要より) |
撮影年 | 2022年 |
メモ |
JR佐世保線の大町駅前すぐ、北側に一の鳥居が見えます。 三の鳥居周辺が駐車場となっており、四の鳥居が肥前鳥居になっています。 月替りの御朱印や切り絵の御朱印など様々な御朱印がいただけます。個人的には佐賀の古社然とした木造社殿と深い社叢がお気に入りです。 |
地図 |