神社名 | 吉弘神社 |
鎮座地 | 大分県別府市石垣西6-6-19 |
由緒等 |
慶長五年(西暦1600年)九月十三日、黒田如水八千の大軍と大友義統三千の軍とが九月九日より石垣原に於て戦い大友軍右翼の大将吉弘嘉兵衛統幸と黒田方の勇将井上九郎右衛門元房とが雌雄を決し相打ちで両雄戦死す。首級は実相寺山に陣を張る黒田如水の命により吉弘の郷、屋山筧の城に送る。 吉弘統幸三十八歳 その屍は法泉寺の僧侶、里人と共に此地に葬り「統雲院殿傑勝運英大居士」と諡る その忠節を後世に伝えんと墳墓の側に一株の松を植え年を経て老松枝を垂れ往来の旅人参勤の諸公も 此の墓前を乗り越せば必ず落馬の祟りありとて下馬の松と云う 今は地名となる。 惜しいかな 明治初年心なきものが此の松を伐採したが後に大分県知事田中千里来たりて自ら二代の松を植えその史蹟を明らかにする 時に前大阪府知事林市蔵が「代から代へ縁伝えよ下馬の松」の一句を石に刻んだのが今に神社の左側にある。 神社は大正十二年九月子孫吉弘茂義、官の許を得て吉弘神社を創建す。神社と墳墓の間の道が昔の西海道の名残りをとどめている。 (案内板より) |
メモ |
吉弘統幸のお墓に鎮座する神社で、その子孫が創建しました。 お墓は別府市の指定有形文化財です。 |
地図 |