神社名 | 楽庭八幡社 |
鎮座地 | 大分県国東市武蔵町吉広 |
由緒等 |
吉弘氏と吉弘楽 南北朝時代(1336年~)豊後の領主大友氏分家田原直貞の二男又三郎正堅公が吉弘村に封を受け、吉弘氏と改め、国東半島一円を統治する本家田原氏を支えた。 初代正堅公は吉弘川の南方の丘陵地に吉弘城を築城するとともに、この地に楽庭八幡社を造営し、戦勝と五穀豊穣を祈願し、奉納した勇壮な太鼓踊りが、現在まで継承されている国指定重要無形民俗文化財の「吉弘楽」である。 楽庭八幡社の南側には、吉弘氏が開創したと言われる永泰寺があり、今も吉弘氏累代の位牌が祀られている。 また、その周辺には吉弘氏七代の墓や吉弘氏が居住したとみられる館跡も見ることができ、そこから吉弘城趾へと続いている。吉弘氏七代親信、八代氏直の時代は戦国の乱世で、居城を都甲荘屋山に移し、後の十一代統幸が大友軍の先頭に立って石垣原の合戦(1600年)に参陣し討死を遂げている。 (案内板より) |
メモ |
吉弘氏ゆかりの神社で念仏踊りから発展したとされる吉弘楽で非常に有名な神社です。 両子山の西側、吉弘川沿いの県道55号線そばに鎮座します。 |
地図 |