神社名 | 皇祖神社 |
鎮座地 | 福岡県飯塚市鯰田1785-2 |
由緒等 | 祭神 玉依姫命(第一代 神武天皇の御母) 品陀和気命(第十五代 應神天皇) 息長足姫命(神功皇后 應神天皇の御母) 由緒 創立年代詳ならずも、神職有光家の旧録によれば其先祖は長州二ノ宮大宮司有光越後守時国の次男午之輔時安、故ありて當村に移住し、村民に神道の事を勧め遂に所の祠官となる。依って村民に氏神勧請のこと勧め、時安、村民と倶に御笠郡宝満宮に詣で、尊神を勧請し産神とし奉れりと云々、實に永正五年(1508年)の頃なり。それより、子孫代々社職を継承す。社傳日後奈良天皇享禄三庚寅社前に禅宗世尊寺を建立せしに、神慮に協はず云々、依って實子を渡して寺を村下の端に移す、かくて里人愈々神慮を畏み寛永の頃迄は神幸等を為し祭典も厳重なりしが、天和の頃より衰へたり。當時の神幸所を妹殿と言ふ、の地に高木神を勧請し神幸の例を以て年毎に八月朔日に萬年願と唱へ本社に於いて大神楽を奏し奉り、神幸跡高木神にも神楽を奏せり。寛永十五年社殿再建、天和二年神殿拝殿共に焼失し、同時に棟札縁起とも焼失す。元禄十三庚辰社殿再建。享保十三年左大臣基煕の書せられたる寶満宮の額面を奉納す。(比額字御笠郡寶満宮)現今別表神社旧官幣小社竈門神社にあり、本社は同宮の御分霊なれば写を申受たるべしと言ふも今記録の存するものなし。延享二年地頭野村隼人(旧福岡藩士)にして地行七千石當社を尊信し御供米として毎年一表二斗一升八合を奉納し、神田六畝二十六歩を寄進せらる。嘉永二巳酉年不浄の事あり拝殿を取毀す。明治二年許可を得て皇祖神社と改稱す。同時旧藩主黒田長知公皇祖神社の額字を書して奉納せらる。蓋し野村家の地行村たりし縁故に依る。 (案内板より) |
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