神社名 鶴岡八幡神社
鎮座地 福岡県田川郡香春町中津原421
由緒等 御祭神 三柱の大神様御鎮座  一座、 応神天皇  二座、 神功皇后  三座、 玉依姫命
玉依姫命は(豊玉彦の女、葺木合命の皇后にて、玉の如く依にて、御容姿の美称なり神武天皇の母君に坐す)

事蹟 応永五年正月十七日、大内盛美、田川郡鶴岡八幡官有 杜参事神宮寺ノ別当行璃披 縁起(応永戦記より)  人王七十六代近衛院の御字、仁平三年春、鎮西八郎この地を領するに及んで、相模国鎌倉の鶴岡八幡宮に勧請して、鶴岡と号す。続いて五寺一院の大伽藍四十八ケの堂舎を建てる、久寿元年宸筆の額を賜る。その額「鎮西鶴岡」と号す。(当社の縁起より)

由来
 仁平二年十月鎮西八郎為朝公が豊後国臼杵から勾金庄南大原、(現田川農林高等学校地域)の館に移りて、源氏の氏神である鎌倉の鶴ケ岡八幡宮の御分霊を御勧請して奉斎するため、家臣尾張権守家任を新造の八幡宮造営の奉行と定め、阿蘇判官忠国に命じ先ず京都に上し近衛天皇の御許を受けて、鎌倉由井の郷に下り鶴ケ岡宮に参詣し幣帛、神楽を献じ神法に従い御心霊を請けて、時の本宮の宮司の次男 津守源盛義、御心霊を捧持し同年師走二十五日瀬戸の尾山(現高野岩丸健次氏屋敷内と言い伝う)に安着す。 この時新造の御社殿完成せず、やむなく尾山に留まりて翌年正月十一日、社殿を初め五寺一院四十八堂舎ことごとく竣功せしにより同月十六日新宮に奉斎す。
 この日為朝公は九州の諸大名高家、家臣を率いて参入し為朝公は拝殿に、その他は回廊、釣殿にいずれも衣冠束帯で仕候す。 総ての修法が終わって神霊を鎮め神楽を奏し舞楽の青海原と太平楽を修理大夫に奉納せしむ、(此の時修理大夫が用いし翁面、鈴、為朝公の烏帽子、鏃、と共に当神社の宝物として現存しています)一同拝賀の後、馬場にて、流鏑馬、競馬を奉仕す又、社僧群座して終日大般若経を勤行する。
 鎌倉本宮の信法により毎年十月新嘗の大祭、即ちホウハン祭を執行せしむ。
(ホウハン祭は現在全く滅びています)
 久寿元年三月勅使徳大寺中納言良房は命により、近衛天皇の御震筆の「鎮西鶴岡若八幡宮」の勅額を持参して下伺される。為朝公これを拝受し掲げしむる。勅使神前に拝賀して太刀三振を奉納して同年四月二日京都に帰られる。
 為朝公は当社を九州の源氏の氏神として甚だ篤く崇拝したが、其の後、保元の乱起りて東国に去る。 後嫡子、鶴王丸に阿蘇忠国を後見として付随させ、当社を宇護せしも平治の頃、天下乱れて当社も殆ど傾廃する。
 文治二年春、源義経公が平家追討の時、梶原源太景季を代参させ社殿を再建す。後、源為朝公は九州守護職に命じて社殿を修理せしむ。
 建武二年、足利尊氏公文中三年秋代弊便細川武蔵守等は社殿に修造を加え神宝金銀を奉納す。永禄四年六月大友義統が香春岳城攻略の時兵火にて社殿焼失、これを毛利元就公が直ちに復興す。天正十五年夏、豊臣秀吉の九州討伐の時再び炎上、慶長十年九月、藩主細川中務大輔藤高これを再興 其後貞亨二年八月、藩主小笠原遠江守忠雄公社殿を造営して深く崇拝する。昭和四十一年小笠原公造営の社殿が不審火にて社殿焼失する。四十四年氏子の赤誠により復興造営がなされる。
(案内板より)
メモ 阿吽逆の狛犬がいます。
地図

一の鳥居

参道

二の鳥居

二の鳥居後方の曲芸系狛犬吽形

二の鳥居後方の曲芸系狛犬阿形

社号標

三の鳥居

阿吽逆の狛犬阿形

阿吽逆の狛犬吽形

参道

参道脇の小祠

手水舎

拝殿

本殿

境内社

境内社

裏手の神域(詳細不明)

木製の鳥居

祭祀場?

裏手の鳥居

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