神社名 | 瘡守稲荷神社 |
鎮座地 | 福岡県北九州市小倉北区京町3-1-1 |
由緒等 |
瘡守稲荷神社ご由来 御祭神 倉稲魂大神 猿田彦大神 大宮女神 相殿祭神(宮地嶽神社) 息長帯比賣命 勝村大神 勝頼大神 寛永(自一六二四年 至一六四四年)の頃、小倉城主小笠原候に仕える真砂政次郎と言う武士が、主君に従って江戸に滞在するうちに、花柳街に遊び瘡疾(性病)を患いました。 当時の医薬では効果少く、友人の勧めで江戸南方の瘡毒に霊験新といわれる瘡守稲荷神社に詣で、平癒を祈願しました。その時政次郎は、「速やかに癒えしめ給わば、帰郷して祠を建て、厚く敬ひ奉らむ」との誓詞を捧げました。その甲斐あって、幾許もなく病癒え、壮健の身となって帰郷することが出来ました。 しかし、帰郷した政次郎は、多忙に取紛れて一年余も誓詞のことを忘れていました。すると、ある梅雨の夜、夢心地のうちに門前に騎馬の音が聞こえ、更に「汝は、江戸にて瘡の癒えたるを忘れたりや」との叱責の声を聞きました。 政次郎は大いに悔い、急ぎ神恩に報いるために、家人、親族の協力を得て、博労町(現在のこの地)に在った宝典寺別院の大日堂境内に祠を建て、寛永十四年(一六三七年)五月十五日鎮座の祭典を挙げました。これがこの神社の起りです。 以来、小倉に疱瘡等の疫病が流行する度に、霊験著しく、城主も深く感激して、小笠原家の定紋(三階菱)つきの幕と提灯並に石灯籠を寄進されたといいます。 その後、昭和の時代に至って、老朽した祠を改築することになり、信徒総代安倍 寛は講社一同と相計り、昭和三十四年に新しい社殿を建立しました。その折、近傍に在った宮地嶽神社の祠も荒廃していましたので、その祭神を相殿祭神として崇敬を加えることになりました。 昭和六十三年十二月、この地区を北九州市の表玄関として整備するための再開発事業が起り、施工者の小倉駅東地区市街地再開発組合と再開発ビルの核店舗株式会社小倉そごうは、神社講社代表と協議を重ねた結果、再開発ビルの屋上に遷座奉り、今後は地域の鎮守として、またこのビルの安全と小倉そごうを始めとする営業者の商売繁盛の守護神としてあがめることになりました。遷座の期日は平成五年十月一日です。 なお、この神社には軍荼利明王の神像が合祀されていましたので遷座の際、境内に別祠を建て、神社の守護として祀りました。 (案内板より) |
メモ | コレット井筒屋(閉館)の12階に鎮座する神社です。一階部分には分社があります。 軍荼利明王も祀られています。 |
地図 |