神社名 | 宇賀神社 |
鎮座地 | 福岡県福岡市中央区大宮2-2-11 |
由緒等 |
宇賀神社の由来 (旧称・一本木神社又は黒田稲荷) 本神社の鎮座する地は、藩政時代は那珂郡平尾村の一本木と呼ばれた所である。一本木の地名の由来は、貝原益軒(一六三〇〜一七一四)の「筑前国続風土記」によると、この地に大きなたぶの木(イヌグス)があった事によると記されている。本神社の起源は明らかではないが当所は田圃の中の小さな祠であったものと思われる。 福岡六代藩主黒田継高公に時代(享保十七年〜十八年(一七三二〜一七三三)に藩内は大飢饉で損毛高およそ四十万石、餓死者七万人牛馬四千頭が死滅と言う、甚大な被害をこうむった。世に「享保の大飢饉」と称される。この大飢饉後、藩政の立て直しが一段落ついた頃の宝暦一〇年(一七六〇)藩主継高公が「風雨順時」「五穀豊穣」を祈る気持から自分の産神である江戸の橋本稲荷にあやかって、新たに神殿・拝殿を造営し「本社蔵棟札」それ以後、直参、代参を欠かさず続けたと言われる。「本社蔵古文書」 江戸時代は一本木の稲荷として衆庶の信仰を集めていたようである(「筑前国続風土記付録」「筑前国続風土記拾遺」)「稲荷」は五穀を司どる神で祭神の倉稲魂命(宇迦之御魂神)は農耕神である。 なお、本社の鳥居は、往時福岡と佐賀・長崎を結ぶ街道(現在高宮通)を往来する旅人にとっての道標でもあった。「福岡教育委員会蔵古文書」 継高公建立百年祭を迎えた、安政五年(一八五九)寄付者を募ったところ那珂、席田、両郡六十九ヵ村、福岡市中二十九ヵ町、二九〇名以上がこれに応じた。「本社蔵古文書」農耕神としての信仰圏の広がりと共に、福禄の神としても都市商工業者の信仰を得ていた往時の様子を物語るものである。 拝殿の表に掲げられた「宇賀神社」の扁額は、明治六年のものである。明治初年には、一本木稲荷の社名を宇賀神社に改称されたようである。 平成五年十一月吉日 以上文献古文書より 大町氏調べ (案内板より) |
メモ | 九州北部に広く伝わる神功皇后伝説の一端をなす神社です。 |
地図 |