神社名 | 筑紫神社 |
鎮座地 | 福岡県筑紫野市原田(大字)2550 |
由緒等 | 筑紫神社 國號起源 延喜式名神大社 祭神・神徳 筑紫の神 筑紫の国魂・筑紫の国号起源・氏神様 玉依姫命 縁結び・子孫繁栄の神 坂上田村麿 武家の神・必勝、戦いの神 由緒 祭神を筑紫の神といい、筑紫の国魂である。奈良時代の「筑後国風土記」の神話によると、『筑前と筑後の境となる山に荒ぶる神がいて、峠を往きかう人を多く取り殺していた。その神は人の命尽(イノチツクス)の神と呼ばれた。後にこの神を祀って筑紫の神と呼ぶようになった』とされ奈良時代以前から当社は在ったと推測される。筑紫の語源は当社の神号から起こった。筑紫の神が白日別神・五十猛命という説もあるが断定はできていない。後世に玉依姫命(竈門神社より勧請)、坂上田村麿を祭祀した。 当社は延喜式神名帳(九二七)に名神大とあり、朝廷より尊崇されていた。日本三大実録によると『貞観元年(八五九)に筑紫神社従四位下を奉授され、元慶三年(八七九)に筑紫神社従四位上を授く』とある。類聚符宣抄に天元二年(九七九)の官符に『住吉・香椎・筑紫・竈門・筥崎等の宮は大宮司を以て、その貫首となす』とある。 鎌倉時代から筑紫村の地頭職であった筑紫氏が社司を兼ねていた。その後、享徳二年(一四五三)社殿が造営された。(それ以前にも社殿はあったと推測されるが、記録としては残っていない)筑紫氏は応仁・文明の頃より筑紫村を去り勝尾城(鳥栖市)に移居し武威を振るっていたが、島津勢により落城した。神領は没収、神宝や古文書類も兵火にかかり当社は荒廃した。寛文二年(一六六二)に荒廃した社殿を再建、延宝八年(一六八〇)火災で焼失したが再興した。古い石の鳥居は元禄二年(一六九九)に建てられた。拝殿の「筑紫宮」の額も同年に寄贈された。現在の本殿は貝原益軒の愁訴により正徳二年(一七一二)に黒田藩主から資材を賜り再建されたものだ。明治維新の近代社格制度により、明治五年(一八七二)に郷社に定められた。明治四十四年(1911)に上原田の若宮神社が飛地神幸所境内地として編入された。大正四年(一九一六)には県社に昇格した。昭和九年(1934)には拝殿が造営され、昭和六十三年(一九八八)には筑紫神社幣殿を中心とした改築、五所神社、若宮神社の建て替え、金刀比羅社の改築が行われた。 (案内板より) |
メモ | 旧縣社、延喜式大社。 粥占祭(お粥に生えたカビで占いをする)で有名です。 住宅街の中に鎮座する重厚な神社です。 |
地図 |